100年前のあの時も、私は榛名に許されたいと思っていた。
「ごめんね、」
私たちは金剛型の三番艦、四番艦として、別々の造船所で、ほぼ同時に起工した。
民間造船所で初めて帝国海軍の主力艦が建造されるということで、周囲に囃し立てられ、両社は強い競争意識をもって私たちの建造にあたっていたようだ。
「どちらが早くできるか」とか、「どちらがより優れた戦艦になるか」とか、そんなことは私にとってはどうでもいいことで、『早く姉妹に会いたい』と、作りかけの自分自身を眺めながら竣工を待ち侘びたものだった。
私の進水は榛名よりもほんの少しだけ早かったが、このぶんなら二隻同時に竣工だろうと私は呑気にかまえていたことを覚えてる。
事件が起こったのは進水の翌年、1914年11月のことだった。榛名の旗艦建造の最高責任者である篠田工作部長の訃報が届いたのである。
繋留試験直前で故障が見つかり、留機関試験の予定日に間に合わなかったため、その責任を取るため自刃したのだと実しやかに囁かれていた。
私はそのとき、初めて“人間の心”に強く触れた気がする。
同じということは、いいことばかりではないと初めて知った。
海軍の計らいにより、私と榛名は同時に竣工となり、私は佐世保の鎮守府、彼女は横須賀の鎮守府にそれぞれ就役した。
それから、私たちは顔を合わせる機会はあったものの、私を見るたびに彼女は悲痛な表情を隠せないものだから、お互い居心地が悪く、心苦しくなっていくのを感じた。
戦争が始まり、作戦の都合上、榛名は金剛姐さんと、私は比叡姉さんと行動を共にすることが多かった。
そして運命のあの日、比叡姉さんが自沈に追い込まれて、その仇を取ろうと思った矢先に米海軍の戦艦の集中砲火を受け、私はそこで力尽きた。
艦の上の景色はは酷い有様だった。
冷たい海の中に沈みながら頭に過るのは後悔ばかりで、中でも特に強く頭に浮かんだのは榛名のことだった。
「もっともっと、榛名と話したかったなぁ……」
暗闇の中で目を閉じながら、殆ど同じ日に起工し、同じ日に竣工した姉妹艦のことを思い、何度も何度も一人で謝っていた。それはさぞ無様で滑稽な姿であっただろうが、私は涙が止まらなかった。
記憶が途切れてから、どれくらいの時間が経ったかは覚えていない。
『ねえ、榛名。あのとき……あの時ね、榛名より先に沈んで、ごめんね』
きっとこれは夢なんだろうが、あの子が笑ってくれるなら、夢だってなんだっていい。
そうして私は100回目の今日を繰り返すのであった。
戦艦霧島、進水100周年